2013/12/27

Study of English : John Willie - Editors : 08

After much deliberation and much research conducted from the front row stalls in dozen different theaters, and convenient tables at some suitable cabarets, the entire staff have come to the unanimous conclusion that our education has been sadly misdirected, and that it was a fairy godmother wrapped up in that serpent's skin and not Old Nick in person.

5つの文。こちらも長くてややこしい。

まず冒頭の「After much deliberation」、「deliberation」を辞書で引いみるとそのまんまが例文として出ており「長く熟考の後」という意味とのこと。ありふれた言い回しなのだろうか?

続く「much research conducted from the front row stalls in dozen different theaters, and convenient tables at some suitable cabarets」、「conducted」は「〜を進めた」なので「much research conducted」で「多くの研究を進めた」、「the front row stalls in dozen different theaters」は「1ダースもの異なる劇場の最前列の席」、「stall」はイギリス英語で劇場などの「1階正面席」を指すとのこと。「front row」も「最前列」の意味だから「頭痛が痛い」的な表現に思えるけど英語的にはOKなんだろうか? 「convenient tables at some suitable cabarets」は「いくつかの適切なキャバレーでの便利なテーブル」という意味になるけどちょっと意味不明気味。「suitable」は「適切な」という意味。とりあえずここまで、「After much deliberation and much research conducted from the front row stalls in dozen different theaters, and convenient tables at some suitable cabarets」を読んでみると、「長い熟考の後、1ダースもの劇場の最前列の席と、相応しいキャバレーの便利なテーブルから多くの研究を進めた。」といったところだろうか? しかし便利なテーブルってのは何だろう?

残りは次回。

2013/12/26

青空読書 06「ゲテ魚好き」火野葦平

青空文庫:「ゲテ魚好き」火野葦平

芥川賞を受賞した「糞尿譚」や自身も従軍体験を語った「麦と兵隊」で知られる昭和の作家、火野葦平による釣りエッセイ。初出は1959年に刊行された「随筆釣自慢」。

フグ、イイダコ、ドンコ釣りについて述べた、特に変わったことのない釣りエッセイ。フグをゲテ魚扱いしているのは、現在だとかなり違和感を感じる。文中で普通に自分で捌いて食ったというような記述があるのに驚いたが、調べてみるとフグの調理師免許は1948年に大阪府が制定したのが始まりで、1959年当時は釣ったフグを自分で捌くのも別段珍しいことではなかったのかもしれない。ここらへん、生まれる10年も前の話なので感覚が判らない。

エッセイの後半に出てくるドンコには火野葦平は相当に愛着があるらしく、東京の自宅を「鈍魚庵」と称するほどだったらしい。ちなみに福岡の自宅は「河伯洞」と名づけており、こちらの河伯はいわゆる河童のこと。火野葦平の河童好きは有名だけれど、ドンコも同じくらい好きだったということか。

Study of English : John Willie - Editors : 07

They could of course include dressmakers, and shoe makers and so on, but they don't - which perhaps is rather unfair, and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind, for we owe a debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever it was that put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.

前回の続きから。一つの文にどんだけ時間をかけてるんだという気がしないでもない。

とりあえず訂正から。前々回、「debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever」を「(gratitude to the apple) or (the snake), or (whatever)」だと思い込んで、「リンゴへの感謝や蛇などといった負債」と訳してみたけど、冷静に考えると「gratitude to (the apple or the snake, or whatever)」と解釈するのが正解だと気づいた。だから訳は「リングや蛇などへの感謝という負債」とすべきだった。

で、今回は関係代名詞「which」以降、「perhaps is rather unfair, and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind」に注目してみる。

「rather」は「相当」とか「思ったより」とかの意味、「perhaps is rather unfair」は「たぶん、思ったより不公平」とかそんな感じで良いだろう。

続く「and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind」、「the rest of mankind」は「the rest of 〜」で「〜以外の部分」というイディオムなので「人類以外のもの」、それが「not to include」ということなので「人類以外のものを含まない」ということになる。「definitely」は「明確」という意味なので「it definitely seems unfair」は「それは明らかに不公平に見える」、つなげると「それは明らかに人類以外を含んでおらず不公平」という感じかな。なんか同じような意味の文章を「and」でつなぐのにはなんか意味があるんだろうか?

とりあえず、これで各部分については何となく意味が掴めたような気がするので、全文を読んでみると「彼らは婦人服の仕立屋や靴職人も含むことができただろうが、しかしそうはしなかった。アダムとイブの単純で飾らない頭にイチジクの葉などの知恵を授けたリンゴや蛇などへの感謝という負債を持つ私達にとって、それはたぶん、思ったより不公平な、明らかに人間以外のものを含まない不公平にみえるからだ。

んー、意味が判るような判らないないような、正しいような正しくないような… 例によって成否の判断が付かないので何ともいえないが、今の時点の英語力ではこれが精一杯といったところ。

とりあえず、激しい敗北感に囚われつつも、次回は次の文に進むことにする。

2013/12/25

Study of English : John Willie - Editors : 06

They could of course include dressmakers, and shoe makers and so on, but they don't - which perhaps is rather unfair, and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind, for we owe a debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever it was that put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.

少し間があいたけど前回の続きから。

今回は「put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.」の部分に注目してみる。

まず「fig leaves」は「イチジクの葉」のこと、「and so on」は「等」の意味、「the idea of fig leaves and so on」で「イチジクの葉などのアイデア」(あるいは「イチジクの葉のアイデアなど」? どっち?)、「the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.」の「unadorned」は「飾りのない」「質素な」という意味で「単純で飾りのないアダムとイブの頭」、つなげると「単純で飾りのないアダムとイブの頭に、イチジクの葉などのアイデアを入れる。」となる。

2013/12/20

Study of English : John Willie - Editors : 05

They could of course include dressmakers, and shoe makers and so on, but they don't - which perhaps is rather unfair, and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind, for we owe a debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever it was that put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.

前回から引き続き、4番目の文。

「which」は関係代名詞で、続く「perhaps」から文末までが「but they don't」にかかるという解釈で問題ないのかな。

とりあえず、文末の「for we」から始まる部分に注目してみる。

for we owe a debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever it was that put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.

「owe」以降の部分は「for we」の「we」に対する説明と考えて良いだろう。「owe」は「(金などを)借りる」という意味、「debt」は「借金」、「it was that」は強調を意味するイディオム。

とりあえずややこしい修飾を除去して文章を単純化すると「we owe a debt it was that put the idea into the heads」となり、直訳すると「私達はアイデアを頭に入れた負債を抱えている」とでもなるんだろか?

あとはこの文に個々の修飾を加えていけば良い筈。

gratitude to the apple or the snake, or whatever」が「debt」の修飾で、「gratitude」は「感謝」の意味、「whatever」はこの場合「その他なんでも」という意味だから「debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever」で「リンゴへの感謝や蛇などといった負債」とでも解釈すれば良いのかな?

続きはまた次回。

青空読書 05「疵」小林多喜二

青空文庫:「疵」小林多喜二

プロレタリア文学を代表する作家、小林多喜二の短編「疵」を読んでみた。初出は「帝国大学新聞」の1931年11月23日号。

娘が左翼運動で刑務所に入れられたことから「モップル(赤色救援会)」(Wikipedia によると「革命運動家の救援活動を行う人権団体」だそうだ)に入会した母親の自己紹介の話。当初、娘の行動をよく理解せず、スパイにやってきた警官にお茶など出したりしていた母親が、警察から帰ってきた娘といった銭湯で見た娘の裸から酷い暴行を受けていたことを知り、自身も左翼運動に加担することになったと皆に説明する。

母親の語り口が自虐的な笑いで自己反省するスタイルで、そこに妙なリアリズムを感じる。娘の裸を見て権力の横暴を知る場面などはプロレタリア文学特有のエログロ嗜好。

2013/12/19

memo

今日も、英語の勉強の続きをする時間がない…

青空読書 04「南予枇杷行」河東碧梧桐

青空文庫:「南予枇杷行」河東碧梧桐

今回は河東碧梧桐が1929年に書いた紀行文「南予枇杷行」を読んでみた。初出は不明、青空文庫って底本は必ず記載されているけど、初出の記載がないのが結構多いのが残念。「南予」って何処?と思ったら四国は愛媛県南部のことで宇和島市や大洲市あたりの地域を指すとのこと。タイトルは「なんよびわこう」という読み方で良いのかな。作者の河東碧梧桐は俳人で正岡子規の弟子、同門の高浜虚子と並び称される人物だが作風は正反対で自由律俳句で知られる人。

その昔、飼っていた3匹の猫の一匹にこの有名な俳人に因んで「河東碧梧桐」と名前を付けていた。因んでというかまんまだが。しかし長いのでそのうち略して「ヘキ」ないし「ヘキちゃん」と呼ぶようになった。ちなみに後の二匹はメス猫で「樋口一葉」と「平塚らいてう」と名づけた。こちらもじき「いっちゃん」と「らいちゃん」と呼ぶようになってしまったが。3匹とも今はもういない。

閑話休題。

「南予枇杷行」だが、紀行文ではあるのだが内容的には名産品や景勝地、地元の伝承や出身の著名人(中江藤樹という人だが知らなかった)の説明がほとんどで紀行文というより観光ガイドのような内容。読みやすくはあるけど、読んでそう面白いものではなかった。青空文庫で唯一公開されている河東碧梧桐の作品がこれなのだが、何でこの作品?という気がしないでもない。

冒頭の一節

一つの山にさきさかつてゐる栗の花、成程、秋になるとよくこゝから栗を送つてくる。疾走する車の中でも、ある腋臭を思はせる鼻腔をそゝる臭ひがする。栗の花のにほひは、山中にあつてのジャズ臭、性慾象徴臭、などであらう。

というのがちょっとおもしろい。

2013/12/17

Study of English : John Willie - Editors : 04

They could of course include dressmakers, and shoe makers and so on, but they don't - which perhaps is rather unfair, and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind, for we owe a debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever it was that put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.

四番目の文章、急に長く複雑な文章に。ダッシュやらカンマやら and や or でやたらと文章が接続されていて混乱する。ダッシュの後にある「which」は関係代名詞ということで良いのかな? だとすればこの場合の先行詞は何になるんだ?

とりあえず、文頭の「They could of course include dressmakers, and shoe makers and so on, but they don't」の部分に注目してみる。

「dressmakers」は婦人服の仕立屋、英語では紳士服と婦人服の仕立屋では異なる単語になる。ここらへんの文化的な背景が気になるところだけど、とりあえず放置。文脈上、主語の「They」は紳士服の仕立屋を指している。「and so on」は「など」という意味。

これらを踏まえてざっくり読んでみると「彼らは婦人服の仕立屋や靴職人も含むことができただろうが、しかしそうはしなかった。」という感じだろうか?「course」や「include」の訳が全然適切で無い気がする。「含む」って何だ? 最初に出てきた「small club」のメンバーに入れるということなのか、それとも仕立屋という職業の内訳として婦人服や靴の製造を取り入れるという話なのか?

時間がないので以下次回。

青空読書 03「姪子」伊藤左千夫

青空文庫:「姪子」伊藤左千夫

伊藤左千夫というと「民さんは野菊のような人だ」でおなじみの「野菊の墓」の作者、日本近代文学史上、もっとも作風と顔立ちがマッチしていない作家の地位を梶井基次郎と争ってる人(筆者脳内調べ)。「野菊の墓」は読んでないけど、中学だか高校の頃に松田聖子主演の映画を観に行ったことがある。もっとも目当ては併映の真田広之主演の「吼えろ鉄拳」の方だったが。

今回読んでみた「姪子」は初出が1909年9月の「アララギ」で、ほぼ全編、語り手である主人公の男の方言によるモノローグで構成された作品。伊藤左千夫の故郷である千葉の方言だろうか。内容は、初老の語り手が夏の早朝、鍛冶屋へ鎌を買いに行き、その帰りにふと思いついて姪子夫婦の家に寄るという話。道中で出会う健気な娘、鍛冶屋の兼公、かつてはいろいろ騒動を起こしたりしたものの今ではすっかり良い夫婦となった姪子とその夫。語り手も含めて登場人物が皆善良で清々しい。

方言で書かれた文章も、独特のリズムがあって読んでいて心地良い。これはちょっとした拾い物だった。

2013/12/16

青空読書 02「新婚旅行」正宗白鳥

青空文庫:「新婚旅行」正宗白鳥

正宗白鳥というと大正時代から昭和の半ばにかけて活動していた自然主義文学の作家で、著作を読んだ記憶はないし、代表作とされる「何処へ」や「入江のほとり」といったタイトルを聞いてもピンとこない。深沢七郎を評価し彼にとっての師匠ともいえる存在だった人で、深沢七郎の文章にちょくちょく名前の出てくる人という印象がほとんど。

今回、読んでみた「新婚旅行」は初出が1926年の「中央公論」で「新婚旅行」と「カルモチン」と題された2つのエピソードからなる作品。「新婚旅行」はタイトル通り、新婚旅行中の若いカップルの電車内での情景を描いたもの、「カルモチン」は歳の離れた妹と温泉宿へ神経衰弱の療養にやってきた女性の話で、どちらも明確な物語はなく、小説というよりスケッチといった方が近い作品。「新婚旅行」は新婚夫婦や他の乗客らのダイアローグが主体で、「カルモチン」は主人公である女性のモノローグが主体という対照的な構造になっている。「カルモチン」の主人公のグダグダブツクサ文句ばかり言ってる感じは今も昔も変わらずこういう人いるよねという感じ。

「新婚旅行」の乗客らの

「彼奴變な奴だね。」「新婚旅行か知ら。」「なあに、カツフヱー女か、丸ビル女だらう。」「どちらもいやに澄ましてやがる、當世の若い者にやかなはない。」

というくだりが面白い。

Study of English : John Willie - Editors : 03

IF IT WERE NOT FOR THE APPLE WHERE WOULD THE TAILORING BUSINESS BE?

3つ目の文、短いがいきなり全部大文字。

If it were not for …」というのは、「もし… がなければ」というイディオム。「would」は「will」の過去形。問題は「where」でこれは関係副詞の「where」何だろうか? あるいは単なる「〜する場合に」といった接続詞として使われているのだろうか? こういう場合はどのように判断すれば良いのか? さっぱり判らない

おそらく文脈から察するに、意味は「もしリンゴがなければ、仕立屋の仕事はどうなっていただろう?」ということだと思うのだが、その場合、「If it were not for the apple, would the tailoring business be?」と「where」ではなく「,」になるのではないのか? というか、辞書で「If it were not for...」のイディオムを検索すると対象となる語の後にカンマをおいて次の文章に続く場合ばかりで、「If iy were not for ... where ...」みたいな例が出てこない。。あまり一般的ではない用法なんだろうか?

3つ目の、しかもこんな単純な文章が判らないようでは先行き不安ではあるが、とりあえず見切り発車で次の文へ進むにしよう。

2013/12/13

Study of English : John Willie - Editors : 02

On each day of each year each member is pledged to eat an apple - not because the have an affinity for doctor's wives - but simply because their motto dates back to the dawn of time.

2つ目の文。

冒頭の「On each day of each year each member is pledged to eat an apple」、「pledged」は「誓い」や「固い約束」などの意味。最初の「On each day of each year」は倒置法で、文末にあっても構わない部分、「各年の各日に」ということだけどこれは毎日と判断しても良いのかな?「every」は全体、「each」は集合の各要素という感じのようだけど。

続く「not because the have an affinity for doctor's wives - but simply because their motto dates back to the dawn of time.」、「not because 〜 but because 〜」は「〜ではなく、〜だ。」というイディオム。「affinity」は「親近感」や「親しみ」で「have an affinity for doctor's wives」で「医者の妻に親しみを持っている」という意味だが、ここでは「医者の妻とよろしくやってる」というニュアンスだろうか?「motto」は「モットー」そのまんま。「モットー」って「サボる」みたいな外国語由来の日本語だと何となく思ってたんだけど、普通に英語なんだな。あと、「dates back」は「遡る」、「dawn of time」は直訳だと「時間の夜明け」になるけど常識的に考えて「時間の始まり」「開闢」「原初」ということだろう。

全体の訳としては「各メンバーには毎日リングを食べるという誓いがある。それは、医者の妻と親密な関係にあるからというわけではなく、単純に「原初に立ち返る」というのが彼らのモットーだからだ。」という感じか?

何で毎日リンゴを食べるのと医者の妻と親密になるのが関係あるのか意味不明だが、これは英語の諺である「An apple a day keeps the doctor away(毎日のリンゴを欠かさなければ医者はいらない)」に因んだものだろう。「原初に立ち返る」というモットーも意味不明だが、こちらは後の文で説明がある筈。

2013/12/12

青空読書 01「鳥獣剥製所」富永太郎

青空文庫:鳥獣剥製所 - 富永太郎

最近、あまり本を読むまとまった時間がなかなかとれないので、青空文庫で公開されてるちょっとした空き時間で読み終えてしまえるような短い作品を読んでいくことにした。

とりあえず1回目はタイトルが目にとまった富永太郎の「鳥獣剥製所」を読んでみた。富永太郎という人はまったく知らなかったが大正時代の画家兼詩人とのこと。画家としては川端龍子の門下で、中原中也などとも親交があったらしい。代表作はよく判らない、肺病を患い1925年に24歳の若さで死んでいる。

「鳥獣剥製所」は1925年に同人誌「山繭」の第3号に掲載されたのが初出。剥製の製作所を訪れた男が見る幻想を描いた散文詩。

私は、私が、鮮かな、または、朧ろな光と影との沸騰の中を潜つて、私の歳月を航海して来た間、つねに、かの女らが私の燈台であつたことを思ひ出した。私は、かの女らが、或るものは濃緑色の霧に脳漿のあひまあひまを冒されて死んでしまつたり、或るものは手術台から手術台へと移つた後に、爆竹が夜の虹のやうに栄える都会の中で、青い静脈の見える腕を舗石の上に延ばして斃死したり、または、かの女らが一人一人発見した、暗い、跡づけがたい道を通つて、大都会や小都会の波の中へ没してしまつたことを思ひ出した。殊に、私が弱くされた肉体を曳いて、この世界の縁辺を歩んでゐるやうに感じ出してこのかた、かの女らは、私の載つてゐるのとはちがつた平面の上に在つて(それが私の上にあるのか、下にあるのか、私は知ることが出来ない)、つねにその不動の眼を私の方へ送つてゐたことを思ひ出した。

とか、ちょっとグロテスクな表現が印象に残った。

Wikipedia : 富永太郎

Study of English : John Willie - Editors : 01

John Willieが雑誌「Bizarre」の創刊号(1946年)に書いた編集記の出だしの一文は以下のとおり。

In a certain town, in a certain country there is a small club whose member all belong to the tailoring trade.

いきなりややこしい文章でなくて良かった。

文頭の「In a certain town, in a certain country」は倒置で本来は後の方に付くもの。単語「certain」を辞書で引いてみると、時間や場所を指す名詞の前にくる場合は「決まった」とか「一定」のとかいう意味を持つらしい。それを踏まえて読んでみると「とある国の、とある町で」といったところだろうか。

続く「there is a small club」はこの文の本体、「whose」は所有格の関係代名詞で、続く「member all belong to the tailoring trade」を先行詞である「small club」と紐付けている。「belong to」は所属するという意味で「tailoring trade」は仕立業とでも訳せば良いのだろうか?

とりあえず一文をまとめて読んでみると「とある国のとある町に、メンバーが全員仕立屋からなる小さなクラブがある。」という感じだろう。簡単な英語なので間違ってはいないと思うが、正しいか間違っているか自分では確認しようがないので不安が残る。

ちなみに、この文を Google翻訳にかけると「特定の町では、特定の国では、そのメンバーすべてが仕立ての貿易に属している小さなクラブがあります。」となった。判るような判らんような…

2013/12/11

Study of English : John Willie - Editors : 00

英語が苦手だ。何年も英語のサイトに目を通してきた(読んできたとはとてもいえない)、普通、これぐらい英語に触れてくれば多少なりとも語学力がつくのではないかと思うのだが、微塵も向上しない。たぶん、それは端からきちんと読むつもりがなく、翻訳サイトと辞書に頼って何となく大意さえ掴めれば良いといういい加減な態度に問題あったのではないかと思う。いい加減、これではいけないと思うので、ちょっと真面目に英語の読解の勉強をすることにした。

とりあえず、いきなり長文を読むのは挫折するのが目に見えているので、手始めにごく短い文章を読んでみることにする。題材は、雑誌「Bizarre」の創刊号(1946年)にJohn Willieが書いた編集記。この文章を選んだ理由は短いのと、John Willieが雑誌「Bizarre」の創刊にあたり何を書いたのか読んでみたいからだ。 とりあえずTASCHENから出ている復刻版より全文を転記しておく。

In a certain town, in a certain country there is a small club whose member all belong to the tailoring trade.

On each day of each year each member is pledged to eat an apple - not because the have an affinity for doctor's wives - but simply because their motto dates back to the dawn of time.

IF IT WERE NOT FOR THE APPLE WHERE WOULD THE TAILORING BUSINESS BE?

They could of course include dressmakers, and shoe makers and so on, but they don't - which perhaps is rather unfair, and it definitely seems unfair not to include the rest of mankind, for we owe a debt of gratitude to the apple or the snake, or whatever it was that put the idea of fig leaves and so on into the heads of simple, unadorned, Adam and Eve.

After much deliberation and much research conducted from the front row stalls in dozen different theaters, and convenient tables at some suitable cabarets, the entire staff have come to the unanimous conclusion that our education has been sadly misdirected, and that it was a fairy godmother wrapped up in that serpent's skin and not Old Nick in person.

As we were throughly delighted with what we saw we think it an idle waste of time to question, argue the toss, or debate as to whether or not the ladies and gentlemen “Do woman dress to please men or merely for their own amusement?”

この文書を一文ずつ順番に読んでいこうと思う。