2014/01/28

Call of Duty GHOSTS (PS3)

コール オブ デューティ ゴースト [字幕版]
スクウェア・エニックス (2013-11-14)
売り上げランキング: 49

「Call of Duty」シリーズの新作「GHOSTS」を遅まきながら中古で購入。2日かけてシングルキャンペーンをクリアした。

今回特に事前に情報を得ずにプレイしたのだが、タイトルからして「COD MW2」に登場したGHOSTことサイモン・ライリーが主人公のスピンオフ作品だと思い込んでいたので、骸骨模様のバラクラバこそ登場するものの内容的にはまったく関係ない物語だったのにちょっとがっかりした。

物語は近未来、南米諸国が集まった連邦とアメリカとの全面戦争を描いたもので、そこに米軍の特殊部隊であるゴーストと、元ゴーストの隊員で過去の作戦で味方に見捨てられ連邦の捕虜になった末、拷問と洗脳で連邦軍に転向した男ロークとの因縁の対決が絡んでくるというもの。脚本にソダーバーグの映画「トラフィック」の脚本家であるスティーヴン・ギャガンを起用したにもかかわらず、世界設定や物語の展開、登場人物のキャラクがー造形はかなりお粗末な感じ。「COD」シリーズのキャンペーンシナリオの出来が特に良いとは思わないけれど、その中でも今回の「GHOSTS」は杜撰で魅力に欠ける印象が強い。また各ステージもどこかで見たことのあるようなマップばかり。今回、工夫してるなと感じられたのは回想エピソードの洪水シーンぐらいで、「COD MW」シリーズを手がけたInfinity Wardの作とは思えないがっかり感。それなりに期待していただけに残念。

2014/01/27

「かくかくしかじか 3巻」東村アキコ

東村アキコの自伝マンガの第3巻。

あっという間に金沢の美大での大学生活が終わって、無職からテレフォンオペレーターへ。もっと大学生活いろいろあるだろうにと思わないでもないが、絵画教室の先生への現代目線からの良い話風の語りかけを繰り返すというギャグ(?)がフォーマットなので、先生が登場しずらい大学生活は端折らざる得ないというとこなのだろうか? おそらく最終回まで明かされないであろう、先生が今現在すでに故人なのか健在なのか問題は、ここまで引っ張ってんだから健在でないと漫画にならないと思うので、健在なのだろうと思う。

今回、絵画教室の後輩生徒として「モーニング」で「ZUCCA×ZUCA」を連載中のはるな檸檬が登場してちょっと吃驚。元東村アキコのアシスタントだったそう。絵柄がまったく異なるので想像だにしなかった。(話は違うが「想像だに」の「だに」って何だろう? いつも気になる)

2014/01/24

青空読書 10 「吉原百人斬」正岡容

青空文庫「吉原百人斬」正岡容

昭和初期から中期にかけて活動した作家、落語・寄席研究家である正岡容が書いた、講談師、神田伯龍の追悼エッセイ。初出は雑誌「あまとりあ」1951年4月号。

死んだ神田伯龍が得意とした講談「吉原百人斬」を再現を交えながらその魅力について語っているのだが、小説仕立の再現部分とそれを評する正岡容の語りが錯綜する感じはメタフィクションのようで面白い。

最初、タイトルを見て「吉原」で「百人斬」だから吉原の遊女を百人相手にした男の話かと思ったらそうではなかった。歌舞伎にもなっている有名な講談で佐野次郎左衛門という男が遊女八ツ橋との恋のもつれから、八ツ橋その他大勢を惨殺したという実話に基づいた話。

追悼されている神田伯龍は五代目で、江戸川乱歩の明智小五郎のモデルとしても知られている人物。

2014/01/23

「四月は君の嘘 8巻」新川直司

前巻で物語の大きな柱であった主人公である公生のピアニストとしての復活は成した訳で、残りは主人公たちの四角関係にどう決着をつけるのかという点とヒロインのかをりがいつ死ぬのか?あるいは死なないのかという二点の絞られ、椿は公生への想いを自覚する一方、かをりは着実に死亡フラグを立てまくり死ぬ気満々、亮太は限りなく影が薄くなるという感じで、そろそろクライマックスかと思いきや、ここにきて相座武士の妹が新キャラとして登場。いろいろ場をかき乱しそうなキャラで露骨な延命措置に売ってでたという感じだけれど、それが吉と出るか凶と出るか。今のところは様子見といった感じかなぁ。

2014/01/21

「月光条例 26巻」藤田和日郎

月光条例 26 (少年サンデーコミックス)
藤田 和日郎
小学館 (2014-01-17)

夜明けまで時間を稼ごうとする月光だが絶対絶命のピンチに。共に戦うことを決意した鉢かづき姫の登場で窮地を脱するが、鉢かづき姫が飛んできた経路からお伽話の住人が北極に隠れていることが発覚、月の客の軍勢は北極へ。演劇部たちもお伽話の住人を守ろうと立ち上がるが…という展開。

いろいろ迷走した感の強い「月光条例」だけれどクライマックスを迎えてのこの展開はやはり熱いものがある。藤田和日郎の本領発揮というところ。まぁ、今回のボスキャラは白面の者やフェイスレスに比べて小物感が漂うのはちと残念な部分ではあるけれど。

2014/01/20

「マギ 20巻」大高忍

マギ 20 (少年サンデーコミックス)
大高 忍
小学館 (2014-01-17)

マグノシュタット編が完結。

物語的にはまったく文句なく面白さを持続していると思うが、漫画としてはほぼ全編を占める戦闘シーンの表現がちょっと残念な感じ。登場人物が多数現れての戦闘になるのだが魔装状態だとパッと見のキャラの判別がしづらく、また決め技の極大魔法の表現も似たり寄ったりのものが繰り返されるので単調に感じる。また、巨大な敵との戦闘になるのだが、主人公側が空を飛んでいる状態で戦う場面が多いせいもあって、俯瞰だったり引きの構図が多く、巨大感が感じられず迫力にも欠ける印象を受けてしまう。今後の展開からも大きな戦闘シーンは欠くことができないだろうから、作者には戦闘シーンの描き方にはもうちょっと頑張ってもらいたい。

ところでマグノシュタットの学園長の最後のセリフの後でシンドバッドの顔が出てくるのはやはりラスボスはシンドバッドということなんだろうか?シンドバッドの場合、アルサーメン側に転ぶというより、シンドバッドの正義とアリババ&アラジンの正義との対立ということになりそうだが。

百均の腕時計

普段、腕時計をつける習慣はないのだが、土日の警備員のバイト時は携帯電話で時刻を確認することができない(規則で就業中の携帯電話の所持を禁じられている)ので、百均で買ってきた腕時計をつけている。その腕時計だが何時頃からか時間が一分ほど遅れるようになった。時間を訂正しようと時計をよく見ると何処にも時刻を訂正するためのボタンのようなものがない。正面下の白い楕円部分がボタンだと思っていたのだが実は単なる飾りだった。どうやらこの時計には時刻を訂正する機能がないらしい。もちろんオレンジ色のベルトと一体になった筐体を無理やり外して中の部品を取り出せば時刻の変更は可能だと思うが、元に戻せるかどうか不明だし面倒なのでやっていない。他にもこの時計は電池の交換も普通ではできないようになっていて、工場出荷時から毎秒消費しいく電池の残量が切れたら商品の寿命はお終いである。長らく店晒しになった商品は買ってから使用できる期間がその分短くなるということになる。時刻の訂正ができないことといい、異常に潔い商品コンセプトにちょっと感心した。

ちなみに使用している百均の腕時計はこれが二代目で、最初に買ったものはちゃんと時刻の訂正もできたし、電池の交換にも対応していた。しかし、使い始めて二月ほどしたら(土日しか着用していないにもかかわらず)ベルト部分の樹脂が弱くなってちぎれてしまった。

2014/01/18

「青い鱗と砂の街 1巻」小森羊仔

「シリウスと繭」の小森羊仔の新作。

父と二人、海辺の街にある母の実家へ引っ越してきた少女時子。彼女は幼いころこの海で人魚の少年に助けられた記憶があって…… という話。

1巻の時点では引っ越したばかり主人公の日常描写がメインではあるものの、失踪中の母や、主人公が海で出会った少年、鳴海くんの海に消えた兄など、長閑さの中にも、この先の物語展開に大きく関わってきそうな不穏な気配もあって、この物語が帯の惹句にある「海辺の街での少女の成長期」であるとすれば、それは相当苦い経験を伴うものなのではないかと予感させる。

細い描線で単純化された人物と、比較的緻密に書き込まれた背景、多用されるインサートカットが印象的で、かなりゆっくりとしたテンポで進行していくのが気持ち良い。コマ割りはけっこう複雑だけど、だからといって読みにくいという感じはない。前作「シリウスと繭」は雑誌でしか読んでなかったのであまり注意深く読んではなかったのだけれど、今回単行本でちゃんと読んでみて巧い作家であることを確信した。これが長編2作目なのだから驚く。最近、単純に絵が上手い下手とかではなく、漫画としての表現が巧みな漫画家がたくさん出てきてすごい時代になったもんだなと思う。

僕の観測範囲が狭いだけなのかもしれないが、小森羊仔はもっと話題になっても良い漫画家だと思う。

2014/01/17

青空読書 09 「婦人雑誌と猫」山本宣治

青空文庫:「婦人雑誌と猫」山本宣治

戦前の政治家「山宣」こと山本宣治のエッセイ。初出は不明。産児制限や性教育に関する活動で知られ、「自慰」という言葉を広めたのも山本宣治。

内容はイギリスの性科学者、著書「性の心理」で知られるハヴェロック・エリス(Havelock Ellis)の著書「随想録」の記述を元ネタに当時の日本の世相を語るというもの。戦前の話ではあるが語られている内容は現代でも通じるものがある。語られている内容は軽佻浮薄な女性誌から女性と社会の関わりについて、猫が引き起こした停電事件から発達したシステムの脆弱性がもたらす危機についての2つ。

エリスのいう

今や人の家は彼の城郭でない、あらゆる低能児、あらゆる無茶者が彼の死命を左右する。一寸触れゝばすぐ歯車を外せる様な華奢な仕掛のからくりで、彼の生活が調節されて居るのだ。文明ほどこはれ易いものは外に又とない。如何に高度の文明でも、それが面して居る多種多様の危険に対して、終り迄頑張り続けた例は無い。今日腕白小僧の様な大人は誰でも、社会に対して『俺のほしがつて居る飴ん棒をくれ、くれなけれやお前の生活が辛抱出来ぬ程ひどい目にあはしてやるから』といふ事が出来る、して又其いふ通り暫くは其腕白の為に、我々の人生が耐へ難いものにされるのだ

などはまったく現代の日本の状況そのままという気がしないでもない。


Wikipedia : 山本宣治 / ハヴロック・エリス

2014/01/16

Study of English : John Willie - Editors : 11

As we were throughly delighted with what we saw we think it an idle waste of time to question, argue the toss, or debate as to whether or not the ladies and gentlemen appeared as they did for the question "Do woman dress to please men or merely for their own amusement?"

昨日の続きから。

昨日、「argue the toss, or debate as to 〜」は「(argue the toss, or debate) as to 〜」という解釈で良いのかな? などと書いたけど、冷静に考えるとカンマがあるので、「(〜 to question),(argue the toss), (or debate as to 〜)」と解釈するのが妥当かな。

となると、「we were throughly delighted」の理由として、「what we saw we think it an idle waste of time to question」と「argue the toss」と「or debate as to whether or not the ladies and gentlemen appeared as they did for the question "Do woman dress to please men or merely for their own amusement?"」の3つあるということか。

昨日とばした「what we saw we think it an idle waste of time to question」の部分。冒頭の「what」は疑問文ではなく強調の意味だろう。続く「we saw we think it」は「we saw we think」と2つ続けるのは何かのイディオムだったりすだろうか?辞書を引いても載っていない。そのまま読んで「私たちはそれを見て考えた」ということで良いんだろうか?「waste of time」は「無駄な時間」とか「暇つぶし」、「idle」も似たような意味だな。「to question」は末尾の二重引用符で括られた部分を指していると考えて良いのかな?

とりあえず全部つなげてみると、「だから、私たちは、"女性は男性を喜ばすために装うのか、それとも単に自分の楽しみのためか?"という疑問について暇な時間に考えてみたり、くどくど議論したり、その疑問のために皆さんが現れたりしたのかどうか討論することで、心底楽しんだ。」という感じになるんだろうか? やはり「the ladies and gentlemen appeared as they did for the question」の部分が意味不明だなぁ。

「タケヲちゃん物怪録 6巻」とよ田みのる

とよ田みのる版「稲生物怪録」の第6巻。前半は前巻で登場した吸血鬼オルロック率いる西洋妖怪チームとのドタバタ。後半はついに宿敵である神野悪六郎が登場、さらに源頼光の末裔らしき少年も出てきてクライマックスの始まりを予感させる展開。頼光が出てきたということは、すでに登場している坂田公時以外の四天王、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光ら3人の末裔の登場も期待できるかな。

お話以外の部分では、ベタなツンデレぶりが良い感じの滝夜叉姫と細かいところで存在感を発揮してる坂田鉄の二人が目立って、本来のヒーローであるはずの六ちゃんが影の薄いツッコミキャラ化しつつあるのが哀れ。次巻では是非もうちっと活躍させてあげてほしいところ。

2014/01/15

Study of English : John Willie - Editors : 10

As we were throughly delighted with what we saw we think it an idle waste of time to question, argue the toss, or debate as to whether or not the ladies and gentlemen appeared as they did for the question "Do woman dress to please men or merely for their own amusement?"

ようやく最後の文に辿り着いた。

とりあえず判らない単語の意味を調べていく。「throughly」は「徹底的に」とか「まったく」という意味、「delighted」は「喜び」とか「嬉しい」、「waste of time to question」は「waste」が「浪費」とか「無駄」という意味なので「質問は時間の無駄」ということ。「idle」も「無駄」という意味。「argue the toss」は「くどくど議論する」、「whether or not 〜」は「〜かどうか」というイディオム。

文頭の「As」はひとまず置いておいて、「we were throughly delighted」は「私たちは徹底的に喜んだ」続く「with 〜」がその理由の説明だろう。

「what we saw we think it an idle waste of time to question」はちょっとややこしいので飛ばして、後半の部分から見ていく。

「argue the toss, or debate as to 〜」は「(argue the toss, or debate) as to 〜」という解釈で良いのかな? 「〜についてくどくど議論したり討論した」ということか。

で、「as to 〜」の「〜」部分だけど、「whether or not 〜」は「〜かどうか」という意味なので、続く「the ladies and gentlemen appeared as they did for the question "Do woman dress to please men or merely for their own amusement?"」の部分、「the ladies and gentlemen appeared as they did for the question」は「皆様は質問のために現れた」ということで良いんだろうか?「they did for the question」は直訳すると「彼らは質問のためにした」ということになるけれど、それだと意味がちょっと通じない。二重引用符で括られた「Do woman dress to please men or merely for their own amusement?」は簡単、「女性は男性を喜ばすために装うのか、それとも単に自分の楽しみのためか?」

時間が無くなったので、次回に続く。

2014/01/09

青空読書 08 「薬」魯迅 (井上紅梅訳)

「薬」魯迅

20世紀初頭の中国の作家、魯迅の「薬」を読んだ。読むのは今回初めてでなく過去に何回か読んでる作品。1919年に書かれた短編で、前半は病床の息子のために死刑囚の血を染み込ませた人血饅頭を買い求め与える老夫婦のエピソード、後半は老母が介護の甲斐なく死んだ息子の墓参りに行くと、死刑囚の墓に紅白の花が咲いているのを見つけるというエピソードの二部構成になっている。

人血饅頭は全近代的な価値観の象徴で、それを盲信する老夫婦は介護の甲斐なく結局、息子を失ってしまう。死刑囚は革命家で志半ばに倒れたその墓に花が咲くというのは判りやす過ぎ!と思わないでもないが、何故か花が咲いたり、最後に思わせぶりに登場する鴉とか、オカルト的要素が入り込んでくるのは、革命家もまた前近代的な価値観から脱しきれていないということなのか、あるいは革命家の墓の前で泣く母もまた前近代的な価値観の主であるということなのか?

ところで、この作品に登場する処刑された革命家のモデルとされるのが、秋瑾という清朝末期の女性革命家で、武田泰淳がこの人をモデルに「秋風秋雨人を愁殺す」という作品を書いているとのこと。気になる。

2014/01/08

青空読書 07「嫉妬する夫の手記」二葉亭四迷

青空文庫:「嫉妬する夫の手記」二葉亭四迷

二葉亭四迷は言わずと知れた「浮雲」で知られる明治時代の小説家、翻訳家で、坪内逍遥とともに日本の近代小説の父ともいえる人物。「嫉妬する夫の手記」は青空文庫には初出の記載がなく詳細は不明。日記風の体裁で自宅に居候している友人Oと妻との不貞を勘ぐり嫉妬する男の心情を綴った内容。小説なのか実際の日記なのかは文面からは何とも判断が付かない。青空文庫の底本は「日本の名随筆」となっており、とすると小説ではなく、書かれている内容は事実なのか?

amazonの kindleストアの解説によると、原本は明治39年か40年ぐらに書かれたであろう露文の手記とされるが、だとすれば誰かが翻訳したことになるが、訳者の記載もない。底本にも記載がないのか、青空文庫の怠慢か。

なりたちも何だかはっきりしないが、書かれている内容も結局のところ妻が友人Oと不貞を働いていたのかははっきりせず、ただ語り手の男が妻の不貞を疑い悶々とするというだけなので、読んでいるこちらとしてもなんだかもやもやした気分がはれないままである。

Study of English : John Willie - Editors : 09

After much deliberation and much research conducted from the front row stalls in dozen different theaters, and convenient tables at some suitable cabarets, the entire staff have come to the unanimous conclusion that our education has been sadly misdirected, and that it was a fairy godmother wrapped up in that serpent's skin and not Old Nick in person.

ぼさぼさしているうちに年が明けてしまった。とりあえず昨年の続き、5つ目の文から後半部分「the entire staff have come to the unanimous conclusion that our education has been sadly misdirected, and that it was a fairy godmother wrapped up in that serpent's skin and not Old Nick in person.」を読んでいく。

「entire」は「全体の」「すべての」という形容詞、「have come to 〜」は「〜するようになる」というイディオム、「unanimous」は「満場一致の」という形容詞、「conclusion」は「決定」とか「判定」という意味の名刺。続く「that」は関係代名詞で、「our education has been sadly misdirected」が先行詞「the unanimous conclusion」の修飾となる。

our education has been sadly misdirected」の「has been 〜」は現在完了形(30年前に習った筈だがもう記憶が曖昧だ)で「〜たことがある」、「misdirected」は「誤った方向にすすめる」という動詞なので繋げると「私達の教育は悲しくも誤った指導をされていた」といったとこか?

とりあえず、今までの部分を繋げると「すべてのスタッフが私達の教育は悲しくも誤った指導をされていたと満場一致の判定を下すようになった。」といった感じか。

さて、次。「and that it was a fairy godmother wrapped up in that serpent's skin and not Old Nick in person.

「and that」は前の文を受けて「しかも」という意味。

「a fairy godmother wrapped up in that serpent's skin」は直訳だと「蛇の皮を着込んだ天の助けを授ける女」という意味。「fairy godmother」は西洋の昔話や妖精譚に登場する主人公が困ったときに助けてくれる女性のこと。有名なところでは「シンデレラ」に登場する魔法使いのおばさんが「fairy godmother」なのだそうだ。「天の助けを授ける女」という訳語は何なので、訳すとすると、ざっくり「良い魔法使い」とかそんな感じで良いのだろうか?「serpent」は「蛇」、「wrapped up」は「着込む」の意味。

続く「Old Nick in person」の「Old Nick」は「悪魔」のこと。「in person」は「本人」なので「Old Nick in person」は「悪魔自身」となる。

つなげてみると「すべてのスタッフが私達の教育は悲しくも誤った指導をされていたと満場一致の判定を下すようになった。しかも、それは蛇の皮を着た良い魔法使いで悪魔ではないのだ。」となる。うーん、これも判ったような判らんような…。

次回、残り一つの文を読んでみた後、すべての文をつなげて今までの読み方の妥当性を考えてみることにしょう。