2014/01/23

「四月は君の嘘 8巻」新川直司

前巻で物語の大きな柱であった主人公である公生のピアニストとしての復活は成した訳で、残りは主人公たちの四角関係にどう決着をつけるのかという点とヒロインのかをりがいつ死ぬのか?あるいは死なないのかという二点の絞られ、椿は公生への想いを自覚する一方、かをりは着実に死亡フラグを立てまくり死ぬ気満々、亮太は限りなく影が薄くなるという感じで、そろそろクライマックスかと思いきや、ここにきて相座武士の妹が新キャラとして登場。いろいろ場をかき乱しそうなキャラで露骨な延命措置に売ってでたという感じだけれど、それが吉と出るか凶と出るか。今のところは様子見といった感じかなぁ。

2014/01/21

「月光条例 26巻」藤田和日郎

月光条例 26 (少年サンデーコミックス)
藤田 和日郎
小学館 (2014-01-17)

夜明けまで時間を稼ごうとする月光だが絶対絶命のピンチに。共に戦うことを決意した鉢かづき姫の登場で窮地を脱するが、鉢かづき姫が飛んできた経路からお伽話の住人が北極に隠れていることが発覚、月の客の軍勢は北極へ。演劇部たちもお伽話の住人を守ろうと立ち上がるが…という展開。

いろいろ迷走した感の強い「月光条例」だけれどクライマックスを迎えてのこの展開はやはり熱いものがある。藤田和日郎の本領発揮というところ。まぁ、今回のボスキャラは白面の者やフェイスレスに比べて小物感が漂うのはちと残念な部分ではあるけれど。

2014/01/20

「マギ 20巻」大高忍

マギ 20 (少年サンデーコミックス)
大高 忍
小学館 (2014-01-17)

マグノシュタット編が完結。

物語的にはまったく文句なく面白さを持続していると思うが、漫画としてはほぼ全編を占める戦闘シーンの表現がちょっと残念な感じ。登場人物が多数現れての戦闘になるのだが魔装状態だとパッと見のキャラの判別がしづらく、また決め技の極大魔法の表現も似たり寄ったりのものが繰り返されるので単調に感じる。また、巨大な敵との戦闘になるのだが、主人公側が空を飛んでいる状態で戦う場面が多いせいもあって、俯瞰だったり引きの構図が多く、巨大感が感じられず迫力にも欠ける印象を受けてしまう。今後の展開からも大きな戦闘シーンは欠くことができないだろうから、作者には戦闘シーンの描き方にはもうちょっと頑張ってもらいたい。

ところでマグノシュタットの学園長の最後のセリフの後でシンドバッドの顔が出てくるのはやはりラスボスはシンドバッドということなんだろうか?シンドバッドの場合、アルサーメン側に転ぶというより、シンドバッドの正義とアリババ&アラジンの正義との対立ということになりそうだが。

百均の腕時計

普段、腕時計をつける習慣はないのだが、土日の警備員のバイト時は携帯電話で時刻を確認することができない(規則で就業中の携帯電話の所持を禁じられている)ので、百均で買ってきた腕時計をつけている。その腕時計だが何時頃からか時間が一分ほど遅れるようになった。時間を訂正しようと時計をよく見ると何処にも時刻を訂正するためのボタンのようなものがない。正面下の白い楕円部分がボタンだと思っていたのだが実は単なる飾りだった。どうやらこの時計には時刻を訂正する機能がないらしい。もちろんオレンジ色のベルトと一体になった筐体を無理やり外して中の部品を取り出せば時刻の変更は可能だと思うが、元に戻せるかどうか不明だし面倒なのでやっていない。他にもこの時計は電池の交換も普通ではできないようになっていて、工場出荷時から毎秒消費しいく電池の残量が切れたら商品の寿命はお終いである。長らく店晒しになった商品は買ってから使用できる期間がその分短くなるということになる。時刻の訂正ができないことといい、異常に潔い商品コンセプトにちょっと感心した。

ちなみに使用している百均の腕時計はこれが二代目で、最初に買ったものはちゃんと時刻の訂正もできたし、電池の交換にも対応していた。しかし、使い始めて二月ほどしたら(土日しか着用していないにもかかわらず)ベルト部分の樹脂が弱くなってちぎれてしまった。

2014/01/18

「青い鱗と砂の街 1巻」小森羊仔

「シリウスと繭」の小森羊仔の新作。

父と二人、海辺の街にある母の実家へ引っ越してきた少女時子。彼女は幼いころこの海で人魚の少年に助けられた記憶があって…… という話。

1巻の時点では引っ越したばかり主人公の日常描写がメインではあるものの、失踪中の母や、主人公が海で出会った少年、鳴海くんの海に消えた兄など、長閑さの中にも、この先の物語展開に大きく関わってきそうな不穏な気配もあって、この物語が帯の惹句にある「海辺の街での少女の成長期」であるとすれば、それは相当苦い経験を伴うものなのではないかと予感させる。

細い描線で単純化された人物と、比較的緻密に書き込まれた背景、多用されるインサートカットが印象的で、かなりゆっくりとしたテンポで進行していくのが気持ち良い。コマ割りはけっこう複雑だけど、だからといって読みにくいという感じはない。前作「シリウスと繭」は雑誌でしか読んでなかったのであまり注意深く読んではなかったのだけれど、今回単行本でちゃんと読んでみて巧い作家であることを確信した。これが長編2作目なのだから驚く。最近、単純に絵が上手い下手とかではなく、漫画としての表現が巧みな漫画家がたくさん出てきてすごい時代になったもんだなと思う。

僕の観測範囲が狭いだけなのかもしれないが、小森羊仔はもっと話題になっても良い漫画家だと思う。

2014/01/17

青空読書 09 「婦人雑誌と猫」山本宣治

青空文庫:「婦人雑誌と猫」山本宣治

戦前の政治家「山宣」こと山本宣治のエッセイ。初出は不明。産児制限や性教育に関する活動で知られ、「自慰」という言葉を広めたのも山本宣治。

内容はイギリスの性科学者、著書「性の心理」で知られるハヴェロック・エリス(Havelock Ellis)の著書「随想録」の記述を元ネタに当時の日本の世相を語るというもの。戦前の話ではあるが語られている内容は現代でも通じるものがある。語られている内容は軽佻浮薄な女性誌から女性と社会の関わりについて、猫が引き起こした停電事件から発達したシステムの脆弱性がもたらす危機についての2つ。

エリスのいう

今や人の家は彼の城郭でない、あらゆる低能児、あらゆる無茶者が彼の死命を左右する。一寸触れゝばすぐ歯車を外せる様な華奢な仕掛のからくりで、彼の生活が調節されて居るのだ。文明ほどこはれ易いものは外に又とない。如何に高度の文明でも、それが面して居る多種多様の危険に対して、終り迄頑張り続けた例は無い。今日腕白小僧の様な大人は誰でも、社会に対して『俺のほしがつて居る飴ん棒をくれ、くれなけれやお前の生活が辛抱出来ぬ程ひどい目にあはしてやるから』といふ事が出来る、して又其いふ通り暫くは其腕白の為に、我々の人生が耐へ難いものにされるのだ

などはまったく現代の日本の状況そのままという気がしないでもない。


Wikipedia : 山本宣治 / ハヴロック・エリス

2014/01/16

Study of English : John Willie - Editors : 11

As we were throughly delighted with what we saw we think it an idle waste of time to question, argue the toss, or debate as to whether or not the ladies and gentlemen appeared as they did for the question "Do woman dress to please men or merely for their own amusement?"

昨日の続きから。

昨日、「argue the toss, or debate as to 〜」は「(argue the toss, or debate) as to 〜」という解釈で良いのかな? などと書いたけど、冷静に考えるとカンマがあるので、「(〜 to question),(argue the toss), (or debate as to 〜)」と解釈するのが妥当かな。

となると、「we were throughly delighted」の理由として、「what we saw we think it an idle waste of time to question」と「argue the toss」と「or debate as to whether or not the ladies and gentlemen appeared as they did for the question "Do woman dress to please men or merely for their own amusement?"」の3つあるということか。

昨日とばした「what we saw we think it an idle waste of time to question」の部分。冒頭の「what」は疑問文ではなく強調の意味だろう。続く「we saw we think it」は「we saw we think」と2つ続けるのは何かのイディオムだったりすだろうか?辞書を引いても載っていない。そのまま読んで「私たちはそれを見て考えた」ということで良いんだろうか?「waste of time」は「無駄な時間」とか「暇つぶし」、「idle」も似たような意味だな。「to question」は末尾の二重引用符で括られた部分を指していると考えて良いのかな?

とりあえず全部つなげてみると、「だから、私たちは、"女性は男性を喜ばすために装うのか、それとも単に自分の楽しみのためか?"という疑問について暇な時間に考えてみたり、くどくど議論したり、その疑問のために皆さんが現れたりしたのかどうか討論することで、心底楽しんだ。」という感じになるんだろうか? やはり「the ladies and gentlemen appeared as they did for the question」の部分が意味不明だなぁ。